えぬずらぼ

やってみたいをやってみる。

米国「人工妊娠中絶」を考える(1)

米連邦最高裁の、

人工妊娠中絶規制を容認する文書がリークされたことを受け、

今全米では、その賛否双方のデモが続いている。

 

今回は「人工妊娠中絶」について、少し考えてみる。

 

人工妊娠中絶、容認派の意見

アメリカでの、人工妊娠中絶の権利容認派の意見としては

「レイプされても堕胎ができない」というものが

かなりの説得力を持っている印象を受ける。

 

「レイプされても堕胎ができない」状況になると、

「レイプされた人」の人生が

「レイプした側」に一方的に影響されることになり

なんというか、こう文字に書き起こしているだけでも

「泣き面に蜂」感がかなり強くなってしまう。

「自由」を掲げる国であればなおのこと、である。

 

憎まれるべき「加害者」の遺伝子を有した「子」を

「わが子」として愛し、育てていくことにも

色々と問題があるように思える。

人工妊娠中絶が規制されたとして、

生まれてくる子供は果たして、

愛される存在として生きていくことが出来るのでだろうか。

 

また、日本で普段生活している我々でも、

日本の「治安の良さ」はしばしば耳にするわけで、

つまりこの主張が説得力を持つ

アメリカの治安というものを、この問題を考える上では

念頭に置いておかなければならないだろう。

自分の大切な人が、あるいは自分自身が

このような状況に巻き込まれる可能性が高い状況下で、

この主張が説得力を持つことは、

私自身、とても納得のいくことのように感じる。

 

印象としては、宿ることになった「子」というよりも

宿している側の「母親」に焦点が当たっており、

その「母親」に焦点を当てることから、

「子」が生きていく上での「質」のようなところに

触れられているように感じる。

 

人工妊娠中絶、反対派の意見

一方、人工妊娠中絶、反対派の意見としては、

先ほどの「母親」に焦点を当てる考え方とは大きく異なり、

「子」のほうに焦点が当てられており、

また「子」の生きていく上での「質」というものよりは

「命自体」の価値に基づいて、

反対の意見が主張されている印象である。

 

この主張を正しくとらえていく上で

米国主要の宗教である

キリスト教」というものの意識が必要となるが、

キリスト教」においては、

人工妊娠中絶は、この「命自体」の価値の観点から

到底、容認されるべきではない事象とされている。

 

ちなみに同様に、キリスト教において

容認されるべきではない、禁止されるべきない内容としては

「LGBTQ」の問題もある。

 

この「キリスト教」の信念を根本にし、

人工妊娠中絶を見たとき、

人工妊娠中絶は立派な「殺人」に位置することになる。

「殺人」という問題に置き換えることが出来るので、

一般的な「殺人」が否定されるべきであるのと同様に、

人工妊娠中絶は、否定されるべきである、という主張に行き着く。

 

このように文字に起こしていて受ける印象としては、

先ほどの、人工妊娠中絶、容認派の意見とは異なり

実に「シンプル」で「ロジック」な印象を受ける主張である。

「間違ってはいない…けれど…」というような思いを抱いてしまうが、

どう反論すればいいか難しくて、

この主張に真っ向から反論するためには

「命の定義」というところを「生物学」的な観点から

一度捉えなおさせる必要があって、

「人工妊娠中絶の対象となる『子』に『命』はなく『人間』ではないですよ」

ということが出来れば、討論には勝てるのかもしれないけれど、

なんというか

「人工妊娠中絶の対象となる『子』に『命』はなく『人間』ではないですよ」

なんてことは、たとえそれが正しくても

なんだか言いたくないなぁ…というのが、

一人の子を持つ親である私としては考えてしまうところである。

 

(急用が入ってしまったため、残りはまた別の機会に記載するとする)

人生とはある種の自慰行為だと思っている

人生とは「自慰行為」

とんでもない書き出しである。

けれど割と、的を射ているかもしれない。

 

「人生って何なのだろう」

そう考える瞬間がこれまで何度もあったし、

今も、そんな瞬間が訪れている。

 

これに対する答えは、きっと

人の数だけあるだろうし、

同じ人に質問しても、

その人の状況によって、答えが変わったりするのだろう。

 

そして今この瞬間

私は「人生とは『自慰行為』である」という考えが

とてもしっくりくるのだが、

少し前のタイミングで私が同じ質問をされたらきっと

「人生とは『死ぬまでの時間つぶし』である」

とか答えていたんだろうな、と思う。

 

「死ぬまでの時間つぶし」について

考えが変わったタイミングということもあって、

それぞれの考えを比較して、

ほんとにこの今の「人生は自慰行為」論を

持ち続けても害はないのだろうかと考えてみる。

 

まず、昔持っていた

「人生は『死ぬまでの時間つぶし』である」論だが、

なんだかよく聞く気がする。

きっと元ネタがあって、

その元ネタを発した人は

たいそうつまらない人生を送った人なんだろうなー

なんて思いながら調べてみると、

「人生は死ぬまでの暇つぶし」という言葉を

漫画家の「みうらじゅん」さんが発しているから驚いた。

 

なんというか、この言葉からは

消極的で陰な、マイナスな側面を感じていたのだけれど、

どうやらそうではないらしい。

 

生まれてから死ぬまでが余生であって

余生を楽しむために、今を生きるのではなく、

今生きている時間も余生なのだから、

楽しさも苦しさも、すべて楽しんで味わおう。

という姿勢で発信されたらしい。

 

すごく、いい。

現代人が忘れがちな「今」にフォーカスし、

「余生」というワードで「生きる」まで投げ捨てることがなく、

「生きる」んだけど、それはそれまでの「生きる」ではなく

あたらしい、もっと瞬間的な「生きる」であって、

なんというか、禅的な何かを感じる。

 

私がもともと抱いていた

「人生は『死ぬまでの時間つぶし』」は

「暇つぶし」が「時間つぶし」になっているだけなんだけれど、

それだけで、大きく印象が変わるものだなあ。

 

「暇つぶし」というのは

「今」よりも、「より充実した今」へベクトルが向いているのに対し、

「時間つぶし」というのは、「より充実した『目的』」に

一旦フォーカスしているところから

「『目的』よりも充実していない今」へベクトルが向いている気がする。

 

たった一語、それも、似たような言葉に変わるだけで、

ずいぶんと意味が変わってくるんだなあ。

この記事を書き進めていなかったら、

ずっとこの言葉を勘違いしたままだったかのしれない。

知れてよかった。

 

「人生は『自慰行為』である」の意味

さて、ここで最初に私が提示していた

「人生とは『自慰行為』」について改めて見ていきたいが、

「人生とは『自慰行為』」については、

私的にはプラスの意味で発信しているつもりで、

「無色」で、なんだか「味気ない」「無機質」と

感じられる場合もある「人生」それ自体に対して

「楽しもうとしたら面白くなるよ」みたいな意味で発信している。

 

「自慰行為」っていうのはきわどいワードかもしれないけれど、

この「自慰行為」ってワードが私は結構好きで、

「独善的な」っていう悪い意味もあるのだけれど、

そっちの意味というよりは「面白おかしさ」「バカらしさ」

けれど「確かにそこにある面白さ」みたいなものを

この言葉で表現したかった。

 

あんまりつらつらと

自慰行為について書くのは良くないのかもしれないけれど、

男女問わず、自慰行為に使用される「玩具」については

明らかに「無機質」なもので、

それは、ただ「無機質」なものとして存在させることもできるのだけれど

それに対して「気持ちよくなりたい」という

人間側の意図、素直な生理的欲求を少し与えてやるだけで

その「無機質」なものが「玩具」となり、

存在する、以外には我々に何かを与えられなかったものが、

「快感」という、実に「有機的」というか

「温度のある」ものを届けるようになる。

 

私は、人生もこれと似たようなところがあると考えていて、

きっと、私たちがなにか「とても大切な本能的な欲求」

言い換えると「夢」や「希望」や「野望」というようなものを

すっかり忘れてしまったときに

人生が「無機質」なものになってしまって、

けれど、ひとたび「夢」や「希望」や「野望」というようなものを与えてやると

それらが輝きだしたりするようなものだと思う。

 

こう考えると、

「人生がつまらない」という、よく抱く「行き詰まり感」にも

なんだか対処できそうな気がしてくるなあ。

つまり、「人生がつまらない」というのは

「人生」側の問題ではなくて「人間」側の問題で、

この「行き詰まり感」を抱くときは、

「夢」や「希望」や「野望」を、人間側が忘れてしまっている、ということ。

原因は外的なものではなく、内的なものでしかない。

だから、内的なアプローチを試みれば、割と早めに解決するのかもしれないなあ。

「瞑想」や「ヨガ」で「思考」を一度すっきりとさせてみるのも良さそうだし、

「断食」や「禁欲」で「欲求」を一度ため込んでみるのもいいかもしれない。

「人生とは『自慰行為』である」と言いつつ、

禁欲している様は少し面白いかもしれないけれど(笑)

 

今日もなんだかんだと

あまり意味を為さなそうなことを発信してみた。

これも、誰かの「自慰行為」に使ってもらえれば幸いである。

抹茶を知る~「灯台下暗し」の私~

海外で抹茶が人気らしい

海外で抹茶を販売するビジネスをされている方の

対談動画を拝聴した。

どうやら今海外で抹茶が人気らしい。

なぜ人気なのかというと、

評価されているのは「味」というよりも

抹茶のもつ「抗酸化作用」にあるらしい。

 

「抗酸化作用」

よく目にするけれど、あまり知らない私は早速しらべてみたのだが、

調べていくにつれ

活性酸素」という、これまた同じくよく目にする単語も

調べることが出来た。

 

調べた内容をここに羅列していくのは、

このブログの性格と少し違うのかなあなんて考えて、

一度「抗酸化作用とは」というタイトルで始めた記事を

書き直している私である。

 

調べて分かったことがもう一つあって

「抹茶」や「お茶」の「良さ」であったり「可能性」というものを

私が見過ごしてしまっていた。

あるいは、考えたことが無かった、ということ。

 

毎日「エナジードリンク」を飲み、

一応、どの種類を飲むか、も

成分を調べ、選んでいるような

なんというか「体をハックしたい」みたいな欲を持つ人間が

海外で「スーパーフード」と呼ばれている「抹茶」を

見過ごしていたというのは実に

灯台下暗し」的な現象で、色々と考えさせられる。

 

灯台下暗し」というもったいなさ

「抹茶」は、昨日の対談動画を見る以前も、

もちろん見た以後も

私の周りに当たり前に存在するわけで、

まぁ「抹茶」までいかなくても

「抗酸化作用」を有している「カテキン」なんてのは

当たり前に口にしているわけで、

にもかかわらず、そこに着目できていないというのは

なんというか「もったいないなぁ」というような感覚を抱く。

 

もし、最初からここに着目できていれば

毎日の「エナジードリンク」への出費

約200円/日 をより低く抑えて、

かつ、より効果的・プラスアルファが期待される

「スーパーフード」を摂取でき、

今の私はもう少し若い気分になれているのかもなあなんて

たらればなことに思いを巡らせてしまう。

 

カフェインたっぷりの「エナジードリンク」を

がぶがぶ飲み「集中するぞ」とやるような

私のような人類(日本では多いかも?)は

海外ではどうやら、少し古くなってきているらしい。

エナジードリンク」が販売され出したころは

真っ先に飲んでみて、活用していたので、

自分は結構最先端寄りの人間なのでは?なんて考えていたが、

「流行」というものが「海外」からもたらされる

昨今の日本の事情を考えてみると、

きっとその時ですら少し「古」かったんだろうなあ。。。

 

後悔先に立たず。

覆水盆に返らず。

といった具合に、私の年齢はもうあの頃には戻ってくれないし、

やっぱりこの「灯台下暗し」状態は

すごく「もったいない」ように感じるのだけれど、

それを防ぐ術はないものか。。。

 

それが当たり前ではない環境に目を向ける

今回「抹茶」を改めて知ることが出来たきっかけは

「海外で」抹茶を扱ったビジネスをしている方のお話を聞いたことだ。

少し言い換えると、

「日本のように『抹茶』が『当たり前』にある世界ではない世界」

の視点から物事を見ている人の話を聞いたときに

今回の私の「気づき」がもたらされた。

 

このことをかんがえると、

「それが当たり前ではない環境」に目を向けて

その環境の人々の話や考えを聞くことは

私が極力無くしたい「灯台下暗し」現象を減らす手助けになるのかもしれない。

 

他の日常の場面では、

私はよくそれを感じることがあって、

私はIT業界で働く、所謂「システムエンジニア」なのだが、

コンピュータの世界にしばらく浸ってから

この現実世界を見たとき、

この現実世界の美しさや、情報の豊かさ、

処理の速度や、神秘的なほどよく出来ている「調和」に

心を打たれることがあって、

この仕事を始めるまでは全く興味がなかった

「自然」というものに興味を抱いた経験がある。

 

おそらく、そういうような

自分の普段目にしている、

あるいは自分が普段置かれている

「環境のシフト」というものが

この「灯台下暗し」現象を防ぐ有効な手立てなのだろう。

 

そういう意味では

現代という時代は非常に便利で、

いつでもどこでも、今自分が置かれている環境とは

全く違った環境にどっぷりと浸かることができる。

海外の動画を見てみるもよし、

あるいは私のように、海外でビジネスを展開している人の

話を聞いてみるもよし。

 

ビジネスとか、難しいことはあまりまだ私には語れないのだけれど、

私は少なくとも、私自身の人生を

もう少し豊かにするために、

今日も自分とは違った環境に目を向けてみたいと思う。

ラーメン屋の炒飯

炒飯が好きだ

私は炒飯が好きだ。

炒飯の呼称は店によって異なり、

上記で「チャーハン」と読ませるところもあれば

「焼き飯」と書いて「やきめし」と呼称するところもある。

私はこれらの呼称を持つあの

ご飯がパラパラで、一粒一粒が卵を纏い、

パラパラで、刻んだ焼豚やネギが入ったアレが大好きだ。

 

休日だった昨日、

昼食に何を食べようかと考えていると、

ふと、アレを食べたくて仕方がなくなってきた。

「炒飯が食べたい…!」

 

家で作ることも可能だが、

アレに関しては家で作ったものと

店で食すもののクオリティーがかなり異なる。

外で食そうと思って、どこの店に行こうかと考えていたところ、

頭の中で挙がってきた候補について

少し思ったことがあった。

 

ラーメン屋の炒飯

私が「炒飯を食べたい」と思って行こうとした場所は

「ラーメン屋」だった。

早速身支度を整えて、ラーメン屋へと車を走らせたのだが、

ラーメン屋としては、このような客を見たとき、どう思うのだろうか

 

「炒飯が食べたくて、あなたのラーメン屋に来ました」

 

なんだかちょっと失礼な感じもする。

決して「ラーメン」を罵倒しているようなことではないのだけれど

どことなくそれを感じてさせてしまうような文章だ。

 

なぜなら

きっと、そのラーメン屋にとって

「炒飯」は「メイン」ではないから。

「メイン」に目を向けず「サブ」に目を向ける感じが、

なんだか失礼な感じを醸し出しているような気がする。

 

そんなことを考えながらラーメン屋についた私は、

「炒飯」のセットを頼んだ。

「ラーメン」と「炒飯」のセット。

「メイン」と「サブ」のセットだ。

 

「サブ」を目的としてきた客が、

「メイン」を結局頼んでしまう。

ここまでくると、先ほどまでの

「ちょっと失礼な気がする」なんて思いはどこかへ飛んでいて、

「サブ」をきっかけに「メイン」の商品を購入する

典型的な「お客」となった私自身の私の評価は

「良いお客さんでしょ?^^」ってな具合で

なんなら少しお店を応援する「サポーター」的な自意識で

カウンターにつき、ラーメンと炒飯を味わった。

いやあ美味しかった。

 

サブメニューをきっかけとして

今回のような「サブメニュー」が目当ての客が

「メインメニュー」を購入するというパターンは

飲食業界できっとよくあるのだろう。

 

最近だと、所謂「インスタ映え」する「デザート」が

飲食店(デザート一本でやっている屋台などは除く)にあれば、

デザートにたどり着くまでのメインメニューである

「食事」のメニューがオーダーされる、といった具合に。

 

また、逆のパターンもあるだろう。

ハンバーガーショップなどがそうだが、

「メインメニュー」であるハンバーガーをPRしておき、

それを見て来店したお客に

「サブメニュー」であるポテトやチキン、

あるいはデザートを、セット、あるいは単品で

購入してもらうといったパターン。

 

今回の「炒飯」と、これらのパターンは

「意図的ではない(と思われる)」か

「意図的である(だろう)」という点で

少し違うかもしれないが、

意図の有無にかかわらず、

「何か」をきっかけにし、そこから「連鎖的」に

物が売れるような現象としては、共通しているといえるだろう。

そしてこの「連鎖的に売れる」ということが

ビジネスにおいては非常に重要である。

 

「きっかけ」は何になるかわからない

「連鎖的」に物が売れることの重要性は

きっと色んなビジネス書にも書いてあるだろうし、

その具体的な手法についても、きっと書いていると思われるので

そちらをご参考いただければと思うのだが、

ここで考えてみたいのは「きっかけ」についてで

そのきっかけは、今回の私の「炒飯」のように

「店側が意図しない(と思われるような)形で」発生することもある

ということだ。

 

そして、その「きっかけ」は

何も飲食に限らず、そしてビジネスに限らず、

個人的な分野においても、大きな役割を果たす、ということだ。

 

ビジネスの例ではなく、個人の例を少し挙げてみる。

私の妹は小学生になるまで

「ひらがな」と「カタカナ」の区別があまりできておらず、

私の時と比べて、少し「文字認識」の成長速度が遅く

母親は少し心配していたが、

ある日、母と私と妹で出かけている時

母親の心配が吹き飛ぶ出来事があった。

 

街中を歩いていた時、

何かの本か、あるいは映画のタイトルを目にした妹がこう言った。

「でんせつ!」

 

ん?となった私と母親が、妹の目を向けているほうを見ると

そこには「伝説」という漢字が記されていたのだ。

その時妹は幼稚園児。

幼稚園児が「伝説」という漢字を読んだ。

 

妹になぜ読めたのかを聞いてみると妹はこう答えた

「だって『ゼルダの伝説』の『伝説』やもん」

妹は小さいころからゲームが好きで

ゼルダの伝説」は妹の好きなゲームの一つだった。

 

ゼルダの伝説」という「きっかけ」が

「国語の勉強」に「連鎖」した瞬間だった。

妹はただ、ゲームを楽しんでいただけかもしれない。

それが「きっかけ」となって、

確実に、別の「何か」に繋がっていた。

 

きっかけを作ることの重要性

先ほどの妹のような例は

特に現代の「学び」の時代においては

非常に重要かと思われる。

 

そして、各分野の一流の人同士が話したときに、

どこかで通じ合うような対話が繰り広げられるのは、

その人たちがそれぞれの持つ「きっかけ」を通して、

違った分野の「何か」と繋がっているからなのかもしれない、とも思う。

 

ここまで述べたように、

ビジネスにおいても、個人においても、

「きっかけ」というのは非常に重要であることがわかってきたが、

「きっかけを作ること」が何より重要だと私は考えている。

 

おそらく「きっかけ」は

誰かに与えられるものではない。

 

ラーメン屋の炒飯も、

店長の「炒飯を出そう」との意図なしではありえないし、

インスタ映えする店も、ハンバーガーショップもそうである。

学びの場面においても、妹の例で言うのであれば

「『ゼルダの伝説』をしよう!」が先にあったわけで、

それらの意図なしではこのような現象は発生しえない。

 

大事なのは「~しよう」という

能動的な、新たな物事への「意図」であり、

それが、今はわからないかもしれないけれど

「何か」に繋がる。

目に見える結果として現れないこともあるかもしれないけれど、

確実に「何か」に繋がっているのだ。

 

ラーメン屋の炒飯の話から、

ビジネス、学びの分野の話をしてみた。

 

「~しよう」というのは

大人になると少なくなってしまうもので、

かなり意識的でないと、難しいことだと私自身感じるが、

私は、今日も何かの「きっかけ」を生み出したい。

それらがいつか繋がるときのことを思い、

ワクワクしながら、今日という日を過ごしてみる。

実は簡単な「ダイエット」

ダイエットに成功しました

この半年間程、私はダイエットに挑戦し、

もともと77kgあった体重を

62kgまで減量することが出来た。

 

ちなみに私は男。

62kgと言うと少し減らしすぎのように聞こえるかもしれないが、

体重というのは慎重と比例して

標準体重という指標が設けられており、

私の身長は最近で言うところの

「人権がない」身長であるため、

痩せすぎのご心配には及ばない。

 

喜んでいいのやら、悲しんでいいのやら。

 

話を元に戻すと、

私は-15kgの減量を成功した。

最初に言った通り、半年で。

もっと言うと、3カ月ほどでこの減量は達成しており、

残りの3カ月は維持、といったような形で、である。

 

ダイエットに成功して思ったことを

今回の記事では書いてみたい。

 

ダイエットは実は簡単

こういう類の見出しは

ダイエットに挑戦するときによく見てきたし

大抵簡単ではなかったし、

大抵その後商品紹介に移って

サプリメントやダイエット器具の購買を勧められるものである。

 

しかし私が実際にダイエットを成功して思ったのは

「ダイエットは簡単」ということだ。

 

「簡単」と一言に行っても

どう簡単なのかによって、簡単かどうかは

受け取る人によって決定されるし、

今から私が言うことを「難しい」と感じる人もいるかもしれないが

私が「簡単」という言葉で表現したいのは

「容易さ」というよりは「シンプルさ」「単純さ」ということである。

 

ダイエットを難しく考えている人に言いたい。

ダイエットは簡単だ。

なぜなら

「食べなければ必ず痩せる」のだから。

 

その痩せ方は健康に悪い

「食べなければ痩せる」と聞いたときに

反論として投げかけられそうな言葉がこの言葉だ

「その痩せ方は健康に悪い」。

 

私も太っていた頃

この思いを、色んなダイエットのメソッドや動画を見ては

繰り返しつぶやいていた。

 

「その痩せ方では筋肉が落ちる」

「筋肉がなくなれば代謝が落ちる」

「すぐにリバウンドするし意味がない」

「拒食症に陥るという話もよく聞く」

「もっと健康にいい方法で痩せるべきだ」

 

こんな具合に、だ。

たしかに、自分で言うと変な感じがするが

これらの主張は非常に「正しい」。

実際にスポーツや食生活の専門家らや

体づくりを専門とするボディビルダーらからも

このようなことが言われるし、

昨今調べればデータなんてのはいくらでも出てくるわけだから、

これらの主張は非常に「正しい」ものである。

 

しかし、少し考えてみてほしいのが

その「正しさ」の「危うさ」だ。

その「正しさ」を保持し、

その「正しさ」を自身の拠り所とすることの「危うさ」だ。

その「正しさ」は、

太っていた頃の私を、

もしかしたら痩せようとしている今のあなたを

どのような状態にしているだろうか。

 

健康志向系デブ

「健康志向系デブ」

これがおそらく、太っていた頃に私に

最もピッタリな肩書かもしれない。

 

先ほどの

「食べなければ痩せる」に対する反論である、

「その痩せ方では筋肉が落ちる」

「筋肉がなくなれば代謝が落ちる」

「すぐにリバウンドするし意味がない」

「拒食症に陥るという話もよく聞く」

「もっと健康にいい方法で痩せるべきだ」

はどれも「正しい」。

 

しかしそれを常々口にしている私は

所謂「デブ」なのだ。

この可笑しさが伝わるだろうか。

私のような「健康志向系デブ」に言いたい。

「あなたは不健康だよ」と。

 

先ほどの「正しさ」の「危うさ」というのは

こういうところにある。

「正しさ」は全然悪くない。

それが間違っているという話ではない。

 

「正しさ」を「駆使する側」の問題で

「駆使する側」の「どうなりたいか」や

「どうありたいか」がすっぽり抜け落ちていないか。

ということと

 

「正しさ」というのは

「どうなりたいか」や「どうありたいか」

から出発して決定されるべきなのではないか、

ということである。

 

どうなりたいか、どうありたいか、から出発する正しさ

「正しさ」というのは、

それ自体ではなく、

それ自体が「その角度において正しい」ということである。

 

たとえば

「水道の水を直接飲むのは良くない」

これは地域によっても異なるが、

色々なデータから考えてみるに、おそらく「正しい」ことだ。

 

だがこれがたとえば

自身が何らかの理由で

非常に飢え、渇き、苦しんでいる状況であればどうだろう。

この「正しさ」を固持し、拠り所にし、

「水道の水を直接飲むのは良くない」んだ!と

さらに飢え、渇き、苦しんでいく様についてはどうだろう。

それは「正しい」ことだろうか。

 

そしてその人が耐え切れず、

目の前に偶然現れた「水道」の蛇口をひねり

水を飲み、渇きが満たされる様は、生を取り戻す様は

「間違っている」ことだろうか。

 

「正しさ」とは本来このように

その人の「どうなりたいか」「どうありたいか」という

非常に個人的な実現目標に対して設定されるべきなのではないだろうか。

 

その人が「水を飲みたい」と言っている中で、

おおよそ健康には害がない程度の

微量の菌が混ざっているかもしれないので

「水道の水を直接飲むのは良くない」という「正しさ」を

採用し続けることのほうが「間違っている」と考えるのが、

より、それらしいことではないだろうか。

 

「正しさ」で身動きできない現代人

もう少し「正しさ」について書くと、

指先1つで膨大なデータを閲覧できてしまう

我々現代人はこの「正しさ」を習得するのが

非常に容易であるし、

容易すぎるがゆえに、その「正しさ」で雁字搦めに、

身動きが取れなくなっていることがよくある。

 

ダイエットで書き出し、

ダイエットからこの「正しさ」の話題へと至ったが

ダイエットはほんの一例にすぎない。

 

働き方や、日々の過ごし方、

物事の考え方に関してもそうである。

 

「企業に縛られない働き方」

それも「正しい」。

ただし、あなたが「そうありたい」のであれば。

 

「ヨガで生き生きした毎日」

それも「正しい」

ただし、あなたが「そうありたい」のであれば。

 

様々な人が

様々な立場から

「正しさ」を提示してくれる現代、

我々に本当に求められているのは

「正しさ」ではなく

「どうなりたいか」「どうありたいか」という

より根幹のほうである。

それ無くして「正しさ」なんてものはないし

どんな「正しい」ものも

それと一致していなければ「間違っている」と

私たちが、私たち自身で「選択」すべきなのである。

 

あなたはどんな体型になりたいか

ダイエットから「正しさ」、

「どうなりたいか」「どうありたいか」と話がそれてしまっていたが、

これはこれで、他の人には書けない

ダイエットの記事になっているんだろうし、

「レッツ!ダイエット!」みたいな

しょーもないオチにしなくてすみそうだな

という少しの安心感すらあるのだが、

 

せっかくここを訪れてくださった方に

問いかけておきたいのは

「あなたがどうなりたいか」ということである。

 

ダイエットできた立場から言うと

「食べなければ痩せる」は「正しい」。

いや、私にとっては「正しい」のほうが良いかもしれないな。

 

なぜなら私は「痩せたかったから」。

そして「痩せる」という現象を

最もコストをかけず、最も時間をかけず引き起こすことが出来るのが

「食べない」ということだったから。

この「自分のなりたい像」に対して

「食べなければ痩せる」はとても「正しい」。

 

そして、それを採用して実際に痩せて、

痩せたサイズの服を一式購入し、

妻と子供と堂々と街を歩き、

時折街中で映る自分の姿を目にして

「あぁ、痩せてよかったなあ」と思えている。

これが、ひとつの現実である。

 

他の人にとって「正しくない」ものを採用した

ひとつの、私にとって喜ばしい現実である。

 

この記事がダイエットのモチベーションというよりも、

なにか、考える機会のようなものを与えられれば

私はとても嬉しく思う。

これまでの自分を変えてみたい

 

これまでの自分を変えてみたい。

そう強く思うようになったのは、

割と最近のことではない。

ずっと、心のどこかで、そう思っていた。

 

自分を変えてみたいと思う動機は人それぞれだと思う。

より自分を高みへ登らせてみたい、

という積極的な、所謂「意識が高い」動機や、

一方「こんな自分ではダメだ」というような

「消極的」「義務的」な動機。

 

私の場合は前者とも後者とも言い難く、

例えば「思考が拡がる」「世界が拡がる」といった意味では

私がこれまで「哲学」というものを学んできた性格上

「意識が高い」動機を持っており、

例えば天才とされる人物らの対談などを聞いた際は

それを強く実感する。

「私は、もっと私の世界を拡げてみたい」。

 

一方私という人間を

最近当たり前に聞くようになった

「自己肯定感」というような観点で見たとき、

大いに問題がある人間だと感じている。

少なくとも「ありのままでいい」なんてことが思えない。

理由は様々あるだろうし、

これまでの成長過程における要因を挙げて

親の教育のせい、と片付けてしまうこともできるかもしれないが、

最も私という人間を知っている私の目から見たときに、

到底それでは片付けきれないような

私という人間の「どうしようもなさ」を痛感する日々だ。

 

「自己肯定感」に関しては、

自分がこれまでに成してきた(と意識している)事、

自分が出してきた(と意識している)成果なども

大きく影響してくるように感じている。

例えば「仕事ができない」というような場合は

「私は仕事ができない」という意識に転じ、

それが「自己否定」へと繋がり、

「自己肯定感がない状態」が育まれる、といったような具合に。

これは本で読んだわけではないが、わかる。

なぜなら、私自身がそうだから。

にもかかわらず、私はこれまで、

自身の仕事の姿勢に関して、改善していこうとは

あまり思ったことが無い。

「このままでいいや」そんな感じ。

 

少し複雑な私という人間

ここまで述べたことを簡潔にまとめると、

どうやら私という人間は少し、複雑なようだ。

 

思考や洞察、知識などといった、

内的な性格を持つものの類に関しては

私は所謂「意識高い系」であり、

その面で「成長したい」「変えてみたい」という

前向きな姿勢を有しているにもかかわらず、

 

「仕事」のような場面では

私は「このままでいいや」という意識を持ち合わせており、

「変えてみたい」と「変わりたくない」が

混在して同居している。

 

これまでいくつかの場面で

その両方の性格による葛藤は感じてきたし、

その葛藤のたびにほとほと疲れてしまう自分がいることも知っているし、

何より、この社会において、

この「葛藤する自分」というのは非常に厄介であることも知っている。

 

そのような厄介な自分が招く

「現実」がまた厄介であることも。

 

厄介な自分が招く現実

と書きつつ、自分の現状について

少し頭の中で整理してみたが、

やはり非常に厄介な、おかしな事態になっている。

 

自分という人間は

難関とされる大学を卒業したにもかかわらず、

到底その大学の人らが目を向けないような

中小企業に勤めており、

 

学びたい!という意識のもと

買いそろえたいろいろな参考書を端に追いやった机で

ゲームをしていて、

 

盛大な結婚式を開き、新婚旅行へ行き、

周りから所謂「成功」とされるようなことをしておきながら

その時の借金が未だに片付けられていない。

 

数年前に子供が出来、

上記の借金がある経済事象の為、

それを機に妻の母、妻の妹がいる妻の実家へ移り住み、今に至るが、

それを「情けないこと」「何とかしないと」と感じつつ、

運悪く(運よく?)

一緒に暮らす義妹の下着姿なんかを見てしまった時には

「もう少しこの生活を続けていたいな」なんてことも考えてしまったりする。

 

要は何が言いたいかというと

「変わりたい」のか「変わりたくない」のか、

「成功したい」のか「成功したくない」のか、

それが自身の中ではっきりしていない

私というような人間が招く「現実」というものもまた、

「変わりたい」のか「変わりたくない」のか、

「成功したい」のか「成功したくない」のか、

よくわからないものとなっているということで、

 

そしてなにより、ここからが最も声高に言うべきことで、

「私は、やっぱり変わりたい」ということなのだ。

 

やっぱり自分を変えてみたい

なぜこのように思うようになったのか、

文字にするとこの思いはとても高尚な

素晴らしいことのように聞こえるかもしれないが、

実際はずっと「消極的」なことかもしれない。

 

「もう、嫌だ」「この現実を、なんとかしたい」

そのような言葉が一番しっくりくるような思い、

それが私の「これまでの自分を変えてみたい」だ。

 

もう、こんな現実とはおさらばしたい。

もう、たくさんなんだ。

 

これまで書いたことでも

「自分」と「現実」の関係性が浮き彫りになっているが

どうやら「自分」と「現実」は

割と近い性格を持ってくるらしい、ということが分かっている。

 

今であれば

「変わりたい」けど「変わりたくない」という私と

「変わりたい」けど「変わりたくない」という現実。

 

私は社会人になってからというもの

このどっちつかずな現実を

どっちつかずな自分で現象化し続けた。

 

そして何度も何度も「閉塞感」のようなものを味わい、

そして、それにもかかわらず、

自分を「変える」ことなく、

相変わらずどっちつかずな現実を、現象化し続けている。

 

けれどもう、上手く言い表せないけれど

それは「もう、嫌」で「もう、限界」で、

「違う世界を見てみたい」

そう強く思っているのが、このタイミングであり、

このブログ、この記事を書く運びとなっている。

 

なぜブログなのか、どう変えるのか

「変わりたい」と思って「ブログ」を書き始めるのは

一見、あまりつながりが無いように思えるかもしれない。

 

所謂「ブロガー」として成功したいという熱意があるのであれば

それは成り立つかもしれないが、

私の場合は「ブロガー」として成功したいという意識はない。

 

ではなぜ「ブログ」なのかというと

それは「書く」という自身の思考の「排水」行為を行いたいからであり、

また、どうせ「書く」のであれば

何か形に残るような媒体で書いておいたほうが良いような気がする

という私の中の貧乏性が

この「ブログ」という選択肢を取らせている。

 

自身の思考の「排水」行為に関しては、

有名な著書『ずっとやりたかったことをやりなさい』(ジュリア・キャメロン)

をはじめとする、様々な「自己啓発本」で語られているが、

 

私たちの脳は

自分のやりたいことを「やりたい」と考える脳のはたらきと、

それらの「やりたい」に対して、

理性的立場から「抑える」はたらきが存在しており、

本来私たちはこれらのはたらきを五分ずつ駆使し生きるように設計されているが

現代社会においては理性的立場の

「抑える」というはたらきがもっぱらメインの機能となっており、

その為私たちは「やりたいこと」「直観」「インスピレーション」といったものを

抑えてしまっている、というもので、

「抑える」はたらきを弱めてやると、

「やりたい」や「直観」「インスピレーション」といったものがはたらきだす、

というものだ(かなり意訳を含んでいるため、知りたい方は著書を読んでほしい)。

 

ではどうすればその「抑える」はたらきを弱められるのか、というと

それが「書く」という行為だ。

朝一番に「書く」という行為を行うことで、

脳の理性的な機能が一種の「疲弊」した状態となる。

 

その理性的な機能が一種の「疲弊」した状態では、

「やりたいこと」「直観」「インスピレーション」の制限が弱くなり、

その日一日、それらを感じやすくなる、というものだ。

 

そしてそれを実践するのがこのブログであり、

今朝一で、ここまでで3000文字を超える文字を

自分「理性的」はたらきを使って排水し、

今、良い感じに「疲弊」を感じてきている。

 

なぜ「やりたいこと」「直観」「インスピレーション」の制限を

弱めたいのかというと、

先ほど書いた「変わりたい」けど「変わりたくない」という私を

なんとかしたい、という思いからである。

 

「変わりたい」けど「変わりたくない」

おそらく私は、

前者が「やりたいこと」で

後者が「理性的な制限」と考えている。

 

後者が弱まり、前者が表に出てくることで、

私という人間が

「変わりたい」「変わった」という人間になれば、

先ほどの理論で行くと、

現実も「変わる」のではないか。

そのような算段でこの「ブログを書く」という行為を始めるに至ったわけである。

 

これからについて

まず、今日この記事を以て

「変わりたい」の一歩を踏めたのは私自身とても達成感があるが、

これは「習慣」にしないと意味がないことも重々承知している。

ゆえに今日から毎日、このブログの更新は続けていくが、

記載する文字数に関しては、ある程度目安のようなものが必要かと思われる。

 

今ここまでで3550字となっているが、

ここまで書くまでの時間は、1時間を超えており、

1時間以上かかるようなことが、毎日の習慣になるとは

少し考えにくいからである。

 

とはいえ、頭の「疲弊」が目的であるため

文字数に関してはある程度の文字数が必要であることも承知しているので、

一旦1500~2000文字を目安に、書き続けてみたい。

 

なんども書くが「習慣」にしないと意味がない。

これはここに書くことで、

今、自分自身に強く言い聞かせている。

 

もし、この記事を最後まで読んでくださった

とても物好きな方には、

どうか、私を見守っていただきたい。

このブログ「N's Lab」という実験場で、

私は私自身を実験し、変わっていこうとしている。

その人間が向かう先を、見守っていただき、

そして、もし物好きなあなたも「変わりたい」と思っているなら、

この実験場の実験を、参考にしていただけたら嬉しく思う。

 

初回の記事ということで少し長くなったが、

今回の記事はここまでとする。

 

今日の天気はあまりよくないな、

でも、心はいつになく、晴れやかに感じるや。