えぬずらぼ

やってみたいをやってみる。

ラーメン屋の炒飯

炒飯が好きだ

私は炒飯が好きだ。

炒飯の呼称は店によって異なり、

上記で「チャーハン」と読ませるところもあれば

「焼き飯」と書いて「やきめし」と呼称するところもある。

私はこれらの呼称を持つあの

ご飯がパラパラで、一粒一粒が卵を纏い、

パラパラで、刻んだ焼豚やネギが入ったアレが大好きだ。

 

休日だった昨日、

昼食に何を食べようかと考えていると、

ふと、アレを食べたくて仕方がなくなってきた。

「炒飯が食べたい…!」

 

家で作ることも可能だが、

アレに関しては家で作ったものと

店で食すもののクオリティーがかなり異なる。

外で食そうと思って、どこの店に行こうかと考えていたところ、

頭の中で挙がってきた候補について

少し思ったことがあった。

 

ラーメン屋の炒飯

私が「炒飯を食べたい」と思って行こうとした場所は

「ラーメン屋」だった。

早速身支度を整えて、ラーメン屋へと車を走らせたのだが、

ラーメン屋としては、このような客を見たとき、どう思うのだろうか

 

「炒飯が食べたくて、あなたのラーメン屋に来ました」

 

なんだかちょっと失礼な感じもする。

決して「ラーメン」を罵倒しているようなことではないのだけれど

どことなくそれを感じてさせてしまうような文章だ。

 

なぜなら

きっと、そのラーメン屋にとって

「炒飯」は「メイン」ではないから。

「メイン」に目を向けず「サブ」に目を向ける感じが、

なんだか失礼な感じを醸し出しているような気がする。

 

そんなことを考えながらラーメン屋についた私は、

「炒飯」のセットを頼んだ。

「ラーメン」と「炒飯」のセット。

「メイン」と「サブ」のセットだ。

 

「サブ」を目的としてきた客が、

「メイン」を結局頼んでしまう。

ここまでくると、先ほどまでの

「ちょっと失礼な気がする」なんて思いはどこかへ飛んでいて、

「サブ」をきっかけに「メイン」の商品を購入する

典型的な「お客」となった私自身の私の評価は

「良いお客さんでしょ?^^」ってな具合で

なんなら少しお店を応援する「サポーター」的な自意識で

カウンターにつき、ラーメンと炒飯を味わった。

いやあ美味しかった。

 

サブメニューをきっかけとして

今回のような「サブメニュー」が目当ての客が

「メインメニュー」を購入するというパターンは

飲食業界できっとよくあるのだろう。

 

最近だと、所謂「インスタ映え」する「デザート」が

飲食店(デザート一本でやっている屋台などは除く)にあれば、

デザートにたどり着くまでのメインメニューである

「食事」のメニューがオーダーされる、といった具合に。

 

また、逆のパターンもあるだろう。

ハンバーガーショップなどがそうだが、

「メインメニュー」であるハンバーガーをPRしておき、

それを見て来店したお客に

「サブメニュー」であるポテトやチキン、

あるいはデザートを、セット、あるいは単品で

購入してもらうといったパターン。

 

今回の「炒飯」と、これらのパターンは

「意図的ではない(と思われる)」か

「意図的である(だろう)」という点で

少し違うかもしれないが、

意図の有無にかかわらず、

「何か」をきっかけにし、そこから「連鎖的」に

物が売れるような現象としては、共通しているといえるだろう。

そしてこの「連鎖的に売れる」ということが

ビジネスにおいては非常に重要である。

 

「きっかけ」は何になるかわからない

「連鎖的」に物が売れることの重要性は

きっと色んなビジネス書にも書いてあるだろうし、

その具体的な手法についても、きっと書いていると思われるので

そちらをご参考いただければと思うのだが、

ここで考えてみたいのは「きっかけ」についてで

そのきっかけは、今回の私の「炒飯」のように

「店側が意図しない(と思われるような)形で」発生することもある

ということだ。

 

そして、その「きっかけ」は

何も飲食に限らず、そしてビジネスに限らず、

個人的な分野においても、大きな役割を果たす、ということだ。

 

ビジネスの例ではなく、個人の例を少し挙げてみる。

私の妹は小学生になるまで

「ひらがな」と「カタカナ」の区別があまりできておらず、

私の時と比べて、少し「文字認識」の成長速度が遅く

母親は少し心配していたが、

ある日、母と私と妹で出かけている時

母親の心配が吹き飛ぶ出来事があった。

 

街中を歩いていた時、

何かの本か、あるいは映画のタイトルを目にした妹がこう言った。

「でんせつ!」

 

ん?となった私と母親が、妹の目を向けているほうを見ると

そこには「伝説」という漢字が記されていたのだ。

その時妹は幼稚園児。

幼稚園児が「伝説」という漢字を読んだ。

 

妹になぜ読めたのかを聞いてみると妹はこう答えた

「だって『ゼルダの伝説』の『伝説』やもん」

妹は小さいころからゲームが好きで

ゼルダの伝説」は妹の好きなゲームの一つだった。

 

ゼルダの伝説」という「きっかけ」が

「国語の勉強」に「連鎖」した瞬間だった。

妹はただ、ゲームを楽しんでいただけかもしれない。

それが「きっかけ」となって、

確実に、別の「何か」に繋がっていた。

 

きっかけを作ることの重要性

先ほどの妹のような例は

特に現代の「学び」の時代においては

非常に重要かと思われる。

 

そして、各分野の一流の人同士が話したときに、

どこかで通じ合うような対話が繰り広げられるのは、

その人たちがそれぞれの持つ「きっかけ」を通して、

違った分野の「何か」と繋がっているからなのかもしれない、とも思う。

 

ここまで述べたように、

ビジネスにおいても、個人においても、

「きっかけ」というのは非常に重要であることがわかってきたが、

「きっかけを作ること」が何より重要だと私は考えている。

 

おそらく「きっかけ」は

誰かに与えられるものではない。

 

ラーメン屋の炒飯も、

店長の「炒飯を出そう」との意図なしではありえないし、

インスタ映えする店も、ハンバーガーショップもそうである。

学びの場面においても、妹の例で言うのであれば

「『ゼルダの伝説』をしよう!」が先にあったわけで、

それらの意図なしではこのような現象は発生しえない。

 

大事なのは「~しよう」という

能動的な、新たな物事への「意図」であり、

それが、今はわからないかもしれないけれど

「何か」に繋がる。

目に見える結果として現れないこともあるかもしれないけれど、

確実に「何か」に繋がっているのだ。

 

ラーメン屋の炒飯の話から、

ビジネス、学びの分野の話をしてみた。

 

「~しよう」というのは

大人になると少なくなってしまうもので、

かなり意識的でないと、難しいことだと私自身感じるが、

私は、今日も何かの「きっかけ」を生み出したい。

それらがいつか繋がるときのことを思い、

ワクワクしながら、今日という日を過ごしてみる。