えぬずらぼ

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米国「人工妊娠中絶」を考える(1)

米連邦最高裁の、

人工妊娠中絶規制を容認する文書がリークされたことを受け、

今全米では、その賛否双方のデモが続いている。

 

今回は「人工妊娠中絶」について、少し考えてみる。

 

人工妊娠中絶、容認派の意見

アメリカでの、人工妊娠中絶の権利容認派の意見としては

「レイプされても堕胎ができない」というものが

かなりの説得力を持っている印象を受ける。

 

「レイプされても堕胎ができない」状況になると、

「レイプされた人」の人生が

「レイプした側」に一方的に影響されることになり

なんというか、こう文字に書き起こしているだけでも

「泣き面に蜂」感がかなり強くなってしまう。

「自由」を掲げる国であればなおのこと、である。

 

憎まれるべき「加害者」の遺伝子を有した「子」を

「わが子」として愛し、育てていくことにも

色々と問題があるように思える。

人工妊娠中絶が規制されたとして、

生まれてくる子供は果たして、

愛される存在として生きていくことが出来るのでだろうか。

 

また、日本で普段生活している我々でも、

日本の「治安の良さ」はしばしば耳にするわけで、

つまりこの主張が説得力を持つ

アメリカの治安というものを、この問題を考える上では

念頭に置いておかなければならないだろう。

自分の大切な人が、あるいは自分自身が

このような状況に巻き込まれる可能性が高い状況下で、

この主張が説得力を持つことは、

私自身、とても納得のいくことのように感じる。

 

印象としては、宿ることになった「子」というよりも

宿している側の「母親」に焦点が当たっており、

その「母親」に焦点を当てることから、

「子」が生きていく上での「質」のようなところに

触れられているように感じる。

 

人工妊娠中絶、反対派の意見

一方、人工妊娠中絶、反対派の意見としては、

先ほどの「母親」に焦点を当てる考え方とは大きく異なり、

「子」のほうに焦点が当てられており、

また「子」の生きていく上での「質」というものよりは

「命自体」の価値に基づいて、

反対の意見が主張されている印象である。

 

この主張を正しくとらえていく上で

米国主要の宗教である

キリスト教」というものの意識が必要となるが、

キリスト教」においては、

人工妊娠中絶は、この「命自体」の価値の観点から

到底、容認されるべきではない事象とされている。

 

ちなみに同様に、キリスト教において

容認されるべきではない、禁止されるべきない内容としては

「LGBTQ」の問題もある。

 

この「キリスト教」の信念を根本にし、

人工妊娠中絶を見たとき、

人工妊娠中絶は立派な「殺人」に位置することになる。

「殺人」という問題に置き換えることが出来るので、

一般的な「殺人」が否定されるべきであるのと同様に、

人工妊娠中絶は、否定されるべきである、という主張に行き着く。

 

このように文字に起こしていて受ける印象としては、

先ほどの、人工妊娠中絶、容認派の意見とは異なり

実に「シンプル」で「ロジック」な印象を受ける主張である。

「間違ってはいない…けれど…」というような思いを抱いてしまうが、

どう反論すればいいか難しくて、

この主張に真っ向から反論するためには

「命の定義」というところを「生物学」的な観点から

一度捉えなおさせる必要があって、

「人工妊娠中絶の対象となる『子』に『命』はなく『人間』ではないですよ」

ということが出来れば、討論には勝てるのかもしれないけれど、

なんというか

「人工妊娠中絶の対象となる『子』に『命』はなく『人間』ではないですよ」

なんてことは、たとえそれが正しくても

なんだか言いたくないなぁ…というのが、

一人の子を持つ親である私としては考えてしまうところである。

 

(急用が入ってしまったため、残りはまた別の機会に記載するとする)