えぬずらぼ

やってみたいをやってみる。

実は簡単な「ダイエット」

ダイエットに成功しました

この半年間程、私はダイエットに挑戦し、

もともと77kgあった体重を

62kgまで減量することが出来た。

 

ちなみに私は男。

62kgと言うと少し減らしすぎのように聞こえるかもしれないが、

体重というのは慎重と比例して

標準体重という指標が設けられており、

私の身長は最近で言うところの

「人権がない」身長であるため、

痩せすぎのご心配には及ばない。

 

喜んでいいのやら、悲しんでいいのやら。

 

話を元に戻すと、

私は-15kgの減量を成功した。

最初に言った通り、半年で。

もっと言うと、3カ月ほどでこの減量は達成しており、

残りの3カ月は維持、といったような形で、である。

 

ダイエットに成功して思ったことを

今回の記事では書いてみたい。

 

ダイエットは実は簡単

こういう類の見出しは

ダイエットに挑戦するときによく見てきたし

大抵簡単ではなかったし、

大抵その後商品紹介に移って

サプリメントやダイエット器具の購買を勧められるものである。

 

しかし私が実際にダイエットを成功して思ったのは

「ダイエットは簡単」ということだ。

 

「簡単」と一言に行っても

どう簡単なのかによって、簡単かどうかは

受け取る人によって決定されるし、

今から私が言うことを「難しい」と感じる人もいるかもしれないが

私が「簡単」という言葉で表現したいのは

「容易さ」というよりは「シンプルさ」「単純さ」ということである。

 

ダイエットを難しく考えている人に言いたい。

ダイエットは簡単だ。

なぜなら

「食べなければ必ず痩せる」のだから。

 

その痩せ方は健康に悪い

「食べなければ痩せる」と聞いたときに

反論として投げかけられそうな言葉がこの言葉だ

「その痩せ方は健康に悪い」。

 

私も太っていた頃

この思いを、色んなダイエットのメソッドや動画を見ては

繰り返しつぶやいていた。

 

「その痩せ方では筋肉が落ちる」

「筋肉がなくなれば代謝が落ちる」

「すぐにリバウンドするし意味がない」

「拒食症に陥るという話もよく聞く」

「もっと健康にいい方法で痩せるべきだ」

 

こんな具合に、だ。

たしかに、自分で言うと変な感じがするが

これらの主張は非常に「正しい」。

実際にスポーツや食生活の専門家らや

体づくりを専門とするボディビルダーらからも

このようなことが言われるし、

昨今調べればデータなんてのはいくらでも出てくるわけだから、

これらの主張は非常に「正しい」ものである。

 

しかし、少し考えてみてほしいのが

その「正しさ」の「危うさ」だ。

その「正しさ」を保持し、

その「正しさ」を自身の拠り所とすることの「危うさ」だ。

その「正しさ」は、

太っていた頃の私を、

もしかしたら痩せようとしている今のあなたを

どのような状態にしているだろうか。

 

健康志向系デブ

「健康志向系デブ」

これがおそらく、太っていた頃に私に

最もピッタリな肩書かもしれない。

 

先ほどの

「食べなければ痩せる」に対する反論である、

「その痩せ方では筋肉が落ちる」

「筋肉がなくなれば代謝が落ちる」

「すぐにリバウンドするし意味がない」

「拒食症に陥るという話もよく聞く」

「もっと健康にいい方法で痩せるべきだ」

はどれも「正しい」。

 

しかしそれを常々口にしている私は

所謂「デブ」なのだ。

この可笑しさが伝わるだろうか。

私のような「健康志向系デブ」に言いたい。

「あなたは不健康だよ」と。

 

先ほどの「正しさ」の「危うさ」というのは

こういうところにある。

「正しさ」は全然悪くない。

それが間違っているという話ではない。

 

「正しさ」を「駆使する側」の問題で

「駆使する側」の「どうなりたいか」や

「どうありたいか」がすっぽり抜け落ちていないか。

ということと

 

「正しさ」というのは

「どうなりたいか」や「どうありたいか」

から出発して決定されるべきなのではないか、

ということである。

 

どうなりたいか、どうありたいか、から出発する正しさ

「正しさ」というのは、

それ自体ではなく、

それ自体が「その角度において正しい」ということである。

 

たとえば

「水道の水を直接飲むのは良くない」

これは地域によっても異なるが、

色々なデータから考えてみるに、おそらく「正しい」ことだ。

 

だがこれがたとえば

自身が何らかの理由で

非常に飢え、渇き、苦しんでいる状況であればどうだろう。

この「正しさ」を固持し、拠り所にし、

「水道の水を直接飲むのは良くない」んだ!と

さらに飢え、渇き、苦しんでいく様についてはどうだろう。

それは「正しい」ことだろうか。

 

そしてその人が耐え切れず、

目の前に偶然現れた「水道」の蛇口をひねり

水を飲み、渇きが満たされる様は、生を取り戻す様は

「間違っている」ことだろうか。

 

「正しさ」とは本来このように

その人の「どうなりたいか」「どうありたいか」という

非常に個人的な実現目標に対して設定されるべきなのではないだろうか。

 

その人が「水を飲みたい」と言っている中で、

おおよそ健康には害がない程度の

微量の菌が混ざっているかもしれないので

「水道の水を直接飲むのは良くない」という「正しさ」を

採用し続けることのほうが「間違っている」と考えるのが、

より、それらしいことではないだろうか。

 

「正しさ」で身動きできない現代人

もう少し「正しさ」について書くと、

指先1つで膨大なデータを閲覧できてしまう

我々現代人はこの「正しさ」を習得するのが

非常に容易であるし、

容易すぎるがゆえに、その「正しさ」で雁字搦めに、

身動きが取れなくなっていることがよくある。

 

ダイエットで書き出し、

ダイエットからこの「正しさ」の話題へと至ったが

ダイエットはほんの一例にすぎない。

 

働き方や、日々の過ごし方、

物事の考え方に関してもそうである。

 

「企業に縛られない働き方」

それも「正しい」。

ただし、あなたが「そうありたい」のであれば。

 

「ヨガで生き生きした毎日」

それも「正しい」

ただし、あなたが「そうありたい」のであれば。

 

様々な人が

様々な立場から

「正しさ」を提示してくれる現代、

我々に本当に求められているのは

「正しさ」ではなく

「どうなりたいか」「どうありたいか」という

より根幹のほうである。

それ無くして「正しさ」なんてものはないし

どんな「正しい」ものも

それと一致していなければ「間違っている」と

私たちが、私たち自身で「選択」すべきなのである。

 

あなたはどんな体型になりたいか

ダイエットから「正しさ」、

「どうなりたいか」「どうありたいか」と話がそれてしまっていたが、

これはこれで、他の人には書けない

ダイエットの記事になっているんだろうし、

「レッツ!ダイエット!」みたいな

しょーもないオチにしなくてすみそうだな

という少しの安心感すらあるのだが、

 

せっかくここを訪れてくださった方に

問いかけておきたいのは

「あなたがどうなりたいか」ということである。

 

ダイエットできた立場から言うと

「食べなければ痩せる」は「正しい」。

いや、私にとっては「正しい」のほうが良いかもしれないな。

 

なぜなら私は「痩せたかったから」。

そして「痩せる」という現象を

最もコストをかけず、最も時間をかけず引き起こすことが出来るのが

「食べない」ということだったから。

この「自分のなりたい像」に対して

「食べなければ痩せる」はとても「正しい」。

 

そして、それを採用して実際に痩せて、

痩せたサイズの服を一式購入し、

妻と子供と堂々と街を歩き、

時折街中で映る自分の姿を目にして

「あぁ、痩せてよかったなあ」と思えている。

これが、ひとつの現実である。

 

他の人にとって「正しくない」ものを採用した

ひとつの、私にとって喜ばしい現実である。

 

この記事がダイエットのモチベーションというよりも、

なにか、考える機会のようなものを与えられれば

私はとても嬉しく思う。